宇野重吉の息子(寺尾聡)と妻?石原裕次郎の恩人?共産党の支持者だった?

第二次世界大戦前から戦後にかけて日本の演劇界をリードしてきた宇野重吉(うのじゅうきち)さんをご存知ですか?

俳優、演出家、映画監督など多方面で活躍されていました。

演劇界に多大なる貢献をした宇野重吉さんについてまとめてみたのでご覧ください。

宇野重吉さんってどんな人?

俳優座、文学座と並んで有名な「劇団民藝」を立ち上げた一人で、お芝居を見る機会のない地方の人々のために「宇野重吉一座」を創設するなど、演劇のために人生を注いだ方です。

俳優としても評価されており、毎日映画コンクールで1948年に助演賞、1959年には男優助演賞を受賞されています。

その後も数多くの賞を受賞するなど、演劇界にはなくてはならない存在だったようです。

そんな宇野重吉さんは、自身が立ち上げた宇野重吉一座の地方公演中に肺がんが判明し、医師の反対を押し切って点滴や酸素ボンベを使いながら地方公演をやりきったそうです。

無理をしたため、翌年には命を落とされています。

自分の体のことより、演劇のことで頭が一杯だったんでしょうね。

~宇野重吉さんの家族について~

①奥さんについて

宇野重吉さんの奥様は「志保(しほ)さん」という一般人の女性です。

なんでも宇野重吉さんが一目ぼれして、交際がスタートしたようですよ。

志保さんと出会った当時の宇野重吉さんは、まだ俳優としては駆け出しの時期だったそうですが、二人は結婚を決意。

宇野重吉さんは下積み生活中であり、それほど収入もなかったため周りは結婚に大反対したそうですが、結婚する意志が変わらなかった宇野重吉さんと志保さんは駆け落ち同然で結婚。

もちろん大変な時期はあったでしょうが、その後の宇野重吉さんの目覚ましい活躍を目にすれば、この時志保さんと結婚したことは大正解だったのかもしれませんね。

②子供について

宇野重吉さんと志保さんの間には息子さんが一人いて、この息子さんというのがなんとあの有名な寺尾聡(てらおあきら)さんなんです!

寺尾聡さんといえば、こちらも日本を代表する俳優の一人で、テレビドラマ「陸王」、映画「博士の愛した数式」、「半落ち」など多くの作品に出演されています。

お父様の宇野重吉さんと同じく数々の賞を受賞しており、日本アカデミー賞を5回受賞、第47回ブルーリボン賞では映画「半落ち」で主演男優賞を受賞しています。

また、寺尾聡さんは歌手としても活躍されており、誰もが一度は聞いたことがある「ルビーの指輪」で100万枚を超える大ヒットを記録しています。

この時、日本レコード大賞を受賞し、芸能界で唯一「日本アカデミー賞最優秀主演男優賞」と「日本レコード大賞」を受賞した人物となりました。

親子そろって才能豊かなようです。

そんな宇野重吉さんと寺尾聡さんは映画「男はつらいよ」や「黒部の太陽」で親子共演を果たしており、2004年に放送されたドラマ「弟」では宇野重吉役を息子の寺尾聡さんが演じています。

このとき寺尾聡さんは、「父の役だけは誰にも渡したくなかった」と語っているほど、宇野重吉役を演じるにあたって特別な思い入れがあったようです。

寺尾聡さんにとって宇野重吉さんは、父親としても、俳優としても尊敬できる素晴らしい人間だったのでしょうね。

~宇野重吉さんと大滝秀治(おおたきひでじ)さんの関係について~

こちらも日本を代表する俳優であり、ナレーターとしても活躍されていた大滝秀治さん。

大滝秀治さんも、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞やブルーリボン賞の助演男優賞など数々の賞を受賞されてえいる名俳優です。

そんな大滝秀治さんが俳優を目指すきっかけとなったのが、宇野重吉さんの舞台でした。

衝撃をうけた大滝秀治さんは、すぐに宇野重吉さんが所属する「劇団民藝」の研究生となり、日々稽古に励んでいたといいます。

しかし、あの独特のかすれ声は演劇には向かなかったようで、「壊れたハーモニカ」と揶揄され裏方に回ることになったんだとか。

それでも俳優の道を諦めていなかった大滝秀治さん。

たまたま舞台の代役を演じたことにより、再び俳優としての道を歩むことになったそうです。

大滝秀治さんの俳優への情熱に、宇野重吉さんも心が動かされたのかもしれませんね。

その後は、テレビドラマ「北の国から」、映画「犬神家の一族」、「あなたへ」など数多くの作品にも出演されており、宇野重吉さんも鼻が高かったことでしょう。

~宇野重吉さんと石原裕次郎(いしはらゆうじろう)さんの関係について~

1968年に公開された映画「黒部の太陽」という映画をご存知の方も多いのではないでしょうか?

昭和を代表するスター俳優、石原裕次郎さんと三船敏郎(みふねとしろう)さんが主演と制作を務め、当時の映画界の掟を大きく破った大掛かりな撮影と膨大な資金が必要だったことも広く知られています。

これは、石原裕次郎さんが「リアル」を追求したためであり、当時としては異例の3億89000万円という大金をかけて制作され、興行収入は15億円を突破したそうです。

この「黒部の太陽」は、キネマ旬報ベストテン4位にランクインし、その後文部省が推薦する映画に選ばれ、当時の小学生は学校の校外学習で見た人が多いようです。

結果としては大ヒットとなった「黒部の太陽」ですが、この映画の撮影は試練の連続だったようです。

まず、当時の映画界の掟である「五社協定」の枠に苦しめられ、さらに製作費が500万しかないという状況。

悩んだ石原裕次郎さんは、当時すでに演劇界のトップに君臨していた宇野重吉さんの元を訪ね、映画作成について熱弁したそうです。

心を動かされた宇野重吉さんは、自身が主宰する「劇団民藝」の全面協力を約束し、俳優だけではなくスタッフや機材まで提供。

また、宇野重吉さん自ら他の俳優陣をスカウトして回り、「宇野重吉さんの頼みなら」ということで、あの豪華メンバーが集まったそうです。

宇野重吉さんは、とても人望のある方だったんですね。

宇野重吉さんの働きかけがあったことで、石原裕次郎さんはなんとか「黒部の太陽」を納得するまで撮影することができ、後世に残る映画を作ることができました。

このことがきっかけで、石原裕次郎さんは宇野重吉さんのことを恩人だとして慕うようになったそうです。

~まとめ~

宇野重吉さんがどれほど演劇界にとって重要であり、現在の芸能界へ及ぼした影響が大きい方なのか分かっていただけたでしょうか?

これほどまでに全身全霊で演劇に取り組んだ人物は、他にいないかもしれません。

宇野重吉さんの功績や情熱は、今後も若い世代に受け継がれていってほしいものですね。

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